喪失が存在出来る場所

 "She is not there" is there.

 特異体質でもなければ、一般的に人間の脳は経験の10%程度しか記憶をする事が出来ないらしい。

多くの記憶は優しい時間の流れに乗って、柔らかな雨に打たれた水彩画のように脆く流れ去っていき、曖昧な滲みだけをキャンバスに残す。

私達はふとした瞬間に、その朧げな感情の残滓に指を這わせてみる事がある。


生まれて初めて、本当の夜を目にしていた。

ビルや家々の明かりの事だけではない。

ネオンも、コンビニも、街灯も、信号機も、まるで全てが墨汁の中に沈んだように押し黙っていた。

道路を走る車はない。電車は復旧の見込みが立っていなかった。

大規模な地震と、それに伴う広範囲での停電が、本当の暗闇を辺りに齎していた。

それは、まるで巨大な生き物が上空を横切っていくのを、街全体が息を殺してやり過ごそうとしているかのような光景だった。

上空には、そこに突然浮き上がってきたかのように星空が広がっていた。

 

隣に座ったあの子は、星空を見上げて

どれが何という星なのかを一つ一つ教えてくれた。

あの子は星に詳しかった。

星座のような星々の位置関係を覚えているのではなく、それぞれの色や光り方や大きさ自体を見て区別をしているらしい。

しばらく目を凝らしてみたのだけど、私にはどれもこれも同じように見えて「全く見分けがつかない」と私は言った。

あの子の方を振り向くと、その身体はほとんど闇に溶けていて、私はその輪郭を確かめるようにあの子の肩に触れた。

そこには確かにあの子の肉体があり、あの子の息遣いがあったが、その顔は黒く塗り潰されていて見る事が出来なかった。

 

「そうね」とあの子は答えた。

「あなたは何かを失う事には敏感だけど、それが何かという事には興味が無いもの」 

 

あの子は時刻を確認しようとして、ポケットからスマートフォンを手に取った。

ディスプレイのバックライトに照らされたあの子のその横顔をずっと記憶に繋ぎ止めていたいと、私は心から願った。