言葉の距離
時々、言葉の贈り物をいただく事がある。
素朴な優しい言葉の花束に嬉しくなって、私も同じように花束を拵えようとするけれど、数本の萎れかけた花のようなものになってしまったり、
クシャクシャのティッシュのようなものになってしまったりする。
状況や関係性や性格などによって、意味が変わってしまうことが怖くて、適切な言葉というものに自信が無くて、どう伝えれば良いかと考えている内に、自分の言葉からどんどん変化してしまい、何だかクシャクシャになってしまう。
とても立派な美しい花束をいただいても、不相応な気がして上手く受け取れない事もあるし、何気無い言葉をトゲのように受取ってしまったり、綺麗な花束だと思ったら造花だったり、投げられた小さな石ころが、刃物になってしまう事もある。
自分が受取る事にも臆病なので、伝える事にも臆病になってしまう。
誰へ向けたものでもない言葉をインターネットに放つと、好意的に受取る人もいれば、
私が放ったままの形を変えずに受取る人もいるし
全く違う形に変化したり、誰かの言葉にすり替わってしまう事もある。
私の言葉は放たれた時に、もう私のものでは無くなって、その時の相手の中に入り込んだり、仕舞われたり、あるいは受取られずに失くなったり、誰かを傷つけたり貫いたりする。
同じ言葉を並べても、それが花束になる事もあれば刃物になる事もある。
意識的にそうする事もあれば、無意識の内にそうなる事もある。
言葉と心には少し距離があって、不確かで、私は時々、言葉を信じない。