手紙

まだ夜も明けていないのに、もう夕暮れね。

ほら、あの木はシーラカンスに似ているね。冬の枝にぶら下がる葉は水掻きのよう。月もなんだか不機嫌そう。

 

私、突然だけど思ったの。世界は創造されたものでは無いんだって。

こういう事は、ただ知る事しか出来ないのかなって。

要するに些細な様でいて、どんな創造主も考え出す事の出来ない事って必ずあるのではないかって。

それはきっと、目で見るか体で体感するか、頭で思い出すしかないの。

届かないのは、書かれなかった手紙だけ。

本当の幸いとは一体

私は、誰かが「幸福」について話したり「幸せだ」と言う時、その人が満たされている状態だという事を感じる事が出来る。
だけど私は「満たされる」という事がよく分からない。

心が乱れておらず落ち着いた状態の事を心地良いと私は感じるけれど、私にはそれが一番「幸福」に近いように思う。
揺れる草や葉の音を聴いたり、温かかったり冷たかったりする風や、落ちてくる雨粒のリズムを感じたり、湿度を纏ったりする時、鳥の声や動物の気配を見つけたり、青い匂いを嗅いだり
土の柔らかさや光の眩しさを感じる時、

私の心は真っ直ぐに平和だと言える。しっかりと呼吸が出来る。
だけど、やはりそれは「幸福」とは多分少し違うのだろう。

 

『「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあの蠍のように本当に皆の幸いの為ならば僕の体なんか百ぺん灼いても構わない。」』(宮沢賢治銀河鉄道の夜』)

 

ジョバンニの本当の幸いは、きっとカムパネルラと一緒に居る事だったのね。
だけど、皆の幸いの為に体を百ぺん灼く必要は無いのよ。そうあって欲しい。

だけど本当の幸いを失った後は、どうするの?ジョバンニ。

寂しさばかり食べて生きる

人との繋がりや社会の中では、自分が居てはいけないような息苦しさと不安を感じ、正しく健やかな人を見ては自分の愚かさが露になる。

 

ニュースは世界の理不尽さや悪意や混乱を伝え、それが自分の中に育とうとする。
失う恐怖と悲しみは私を飲み込み怪物になって、自分を守る為に言葉をナイフに変えて振り翳す。

静謐な湖のような穏やかで静かな日々を求めるのに、荒れ狂う嵐の波に溺れている。

自分が生きる事の不自然さと違和感が苦しく、それは自分の愚かさや怠惰や甘えや努力不足だと責められ、自分を閉ざして遠くへ行く事で耐えるような日々だった。
自分の事も他人の事も信じず受け入れてなどいなかった。
触れられたくなかったし触れるのは怖かった。

一人きり自然の中にいる時にだけ、私は呼吸が出来た。
植物や動物に触れる時だけ、慈しみを感じられた。

 

ある日、この生き辛さは幼少期の経験によって齎された呪いであり、病名が付く事を知り、込み上がる後悔で胸が苦しくなり、申し訳無さと不安と混乱で泣き崩れた。


病気である事をずっと許されていなかった。

だけど私は病名があった事に安堵した。
何故苦しかったのか、これからどうすれば良いのか、知る事が出来ると思ったから。
気付くまで長かったな。そう思うとまた泣きたくなった。

 

本当はね、誰もいないずっと、ずっとずっと遠くへ行きたかったけど、安心出来る温かな布団へ帰りたかったのかもしれない。

一人きりになって、透明な幽霊になりたかったけど、手を繋いで此処にいても良いと思いたかった。

きっと誰にも届かないし、誰にも分からないと思っていたけれど、誰かに届いて訊いて欲しかったのかもしれない。

 

面白い事や楽しい事、綺麗なものを教えて欲しかった。

生きていても良いんだよと、許されたかったね
大丈夫だよと、言われたかったね。

命が踊りだす自由な子供でいたかったね。

ねえ、大切だから此処に居るんじゃなかったの。
愛おしいから、それでも此処に居るんじゃなかったの。
自分を、誰かを 影を 光を 植物を 風を 動物を、鳥を 心を 体を。

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ずっと遠くへ行きたかった

遠くがある事を知ったのは、広大な自然のある土地を テレビで見た時だったかもしれない。

部屋に寝転び目を閉じて、風の音だけを聴きながらその映像を頭の中で広げ、自分がその土地にいる想像をし、何度も遊んだ。

物語がある事を知ったのは、新学期に教科書をもらった時だったかもしれない。
新しい教科書の物語がある部分を、授業が始まる前に全て読み尽くした。
私は図書室へ通うようになり、誰かと話したり学んだりする事よりも更に物語の中へ没頭し、遠くへ行く事を望み、本の中で語られる言葉を信じた。

本当の事を何も知りたく無かった。

生活の中の暴力や怒りや憎しみや理不尽さを。

 

それから、音楽を聴いて色を知り、絵を見て囁きを聞き、映画を観て景色を見つけ、本を読んで物語に触れる。
そういった事が、常に私を遠くへ運んでくれた。

目を閉じた時の方が、ずっと鮮やかで広かった。

深夜2時の街灯のぼんやりした公園や、早朝5時の青い景色をお化けのように彷徨い歩く事は、私を切り離す事だった。

私にも出来るだろうかと、書いてみた事と描いてみた事があるけれど、そこにはどっしりと私が現れていて、とても居心地が悪く上手くはいかなかった。

 

記憶が過去になると、私を離れてどんどん遠くなる。
写真を撮る事は、そういった感覚になんだか近く本当であり本当ではない、私であり私ではない、そんな遠くの景色を捕まえる事が出来るようで集めている。

日本からみたフランスは遠かったし、フランスからだともう日本は遠い。

戻る場所、帰る場所は無く、だから遠くへ行く事ばかりを考える。

それでまた次は、何処へ行くのかと。

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喪失が存在出来る場所

 "She is not there" is there.

 特異体質でもなければ、一般的に人間の脳は経験の10%程度しか記憶をする事が出来ないらしい。

多くの記憶は優しい時間の流れに乗って、柔らかな雨に打たれた水彩画のように脆く流れ去っていき、曖昧な滲みだけをキャンバスに残す。

私達はふとした瞬間に、その朧げな感情の残滓に指を這わせてみる事がある。


生まれて初めて、本当の夜を目にしていた。

ビルや家々の明かりの事だけではない。

ネオンも、コンビニも、街灯も、信号機も、まるで全てが墨汁の中に沈んだように押し黙っていた。

道路を走る車はない。電車は復旧の見込みが立っていなかった。

大規模な地震と、それに伴う広範囲での停電が、本当の暗闇を辺りに齎していた。

それは、まるで巨大な生き物が上空を横切っていくのを、街全体が息を殺してやり過ごそうとしているかのような光景だった。

上空には、そこに突然浮き上がってきたかのように星空が広がっていた。

 

隣に座ったあの子は、星空を見上げて

どれが何という星なのかを一つ一つ教えてくれた。

あの子は星に詳しかった。

星座のような星々の位置関係を覚えているのではなく、それぞれの色や光り方や大きさ自体を見て区別をしているらしい。

しばらく目を凝らしてみたのだけど、私にはどれもこれも同じように見えて「全く見分けがつかない」と私は言った。

あの子の方を振り向くと、その身体はほとんど闇に溶けていて、私はその輪郭を確かめるようにあの子の肩に触れた。

そこには確かにあの子の肉体があり、あの子の息遣いがあったが、その顔は黒く塗り潰されていて見る事が出来なかった。

 

「そうね」とあの子は答えた。

「あなたは何かを失う事には敏感だけど、それが何かという事には興味が無いもの」 

 

あの子は時刻を確認しようとして、ポケットからスマートフォンを手に取った。

ディスプレイのバックライトに照らされたあの子のその横顔をずっと記憶に繋ぎ止めていたいと、私は心から願った。